神様の御心にかなう祝福家庭とは?
『サンクチュアリ教会の人たちは、2月13日までに聖酒を飲まなければ祝福が無効になるとか、2世が1世になるとかわけのわからない、脅しともとれるようなことをいっている。私の受けた祝福は神様より真の御父母様を通して、永遠に与えられた祝福である。真の家庭の子女様といえども、祝福に関して口を挟むことはできないはずだ。』
と考えている食口は多いのかもしれません。
確かにその通りでしょう。
でも、その祝福が祝福として永遠に価値あるものとして維持されるには、ある条件が必要であることは、ちょっと考えてみればわかることです。
祝福を受けたからといって、無条件に神様が認める家庭になったわけではないですよね。
そこには、責任分担の遂行が必要です。
では、その責任分担とは何でしょうか?
それは、神様を中心として出発した家庭であるということではないでしょうか。
亨進様は、お母様によって挙行された基元節の祝福式とそれ以後の祝福式は、神様を中心としたものではなく、非原理的な祝福であり、その場で呑んだ聖酒が条件にひっかかるとおっしゃっておられます。
その聖酒がどのような霊的背景で作られたものかはわかりませんが、とにかくひっかかるといわれるのです。サタンの主管下に落ちる条件を立ててしまった状態だといわれるのです。
ですから、当時聖酒を飲んでいない祝福家庭は、その状態になっていないということです。
基元節が神様と真のお父様の願われたものであったのかどうか、み言葉と摂理的な観点から、個人の検証が必要でしょう。
いずれにせよ、2月13日までと期限を決められたのも、偽りの祝福家庭をふやさないための神様と真のお父様の決意の表れであり、誤って聖酒を呑んでしまった家庭への摂理だと個人的には感じています。
亨進様の背後にて真のお父様が摂理をされていると私は感じたので、聖酒はいただきました。
そうすることが、自分の責任分担だと感じたからです。
この記事を書きながら、心に浮かんだ聖句を記します。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
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